留萌市の文化財について
文化財とは、「我が国の長い歴史の中で生まれ、はぐくまれ、今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産」のことをいいます。
文化財保護法では、文化財を「有形文化財」、「無形文化財」、「民俗文化財」、「記念物」、「文化的景観」、「伝統的建造物群」と定義し、これらの文化財のうち重要なものを国が指定・選定・登録し、重点的に保護しています。
留萌市には、国の指定を受けた文化財(国指定文化財)と、市で守り伝えることを定めた文化財(留萌市指定文化財)があります。
これら文化財を通して、留萌の歴史や文化をたどってみてはいかがでしょうか。
文化財保護法では、文化財を「有形文化財」、「無形文化財」、「民俗文化財」、「記念物」、「文化的景観」、「伝統的建造物群」と定義し、これらの文化財のうち重要なものを国が指定・選定・登録し、重点的に保護しています。
留萌市には、国の指定を受けた文化財(国指定文化財)と、市で守り伝えることを定めた文化財(留萌市指定文化財)があります。
これら文化財を通して、留萌の歴史や文化をたどってみてはいかがでしょうか。
国指定文化財
留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具(国指定重要有形民俗文化財)
所在地:留萌市礼受町13番地の1(旧留萌佐賀家漁場内)
指定日:平成7年(1995)12月26日
内 容: 弘化元年(1844)以降、留萌市礼受地区でニシン漁を営んでいた佐賀家が、昭
和33年(1958)のニシン建網漁を予定して用意した漁労用具一式です。
(用具数)・網及び網関係用具 1,059点
・船及び船関係用具 340点
・沖揚げ・加工関係用具 1,486点
・修理関係用具 307点
・施設・経営関係用具 553点 合計 3,745点

指定日:平成7年(1995)12月26日
内 容: 弘化元年(1844)以降、留萌市礼受地区でニシン漁を営んでいた佐賀家が、昭
和33年(1958)のニシン建網漁を予定して用意した漁労用具一式です。
(用具数)・網及び網関係用具 1,059点
・船及び船関係用具 340点
・沖揚げ・加工関係用具 1,486点
・修理関係用具 307点
・施設・経営関係用具 553点 合計 3,745点

旧留萌佐賀家漁場(国指定史跡)
所在地:留萌市礼受町13番地の1他
指定日:平成9年(1997) 3月11日
内 容: 江戸時代の弘化元年(1844)に佐賀家八代平之丞が留萌で初めて礼受にニシン
漁場を開き、それ以来昭和32年(1957)までの113年間ニシン漁を営んできた
漁場です。
現存する建物は、江戸時代から明治初頭にかけての建造と考えられる母屋
(番屋)、明治36年(1903)建造の製品を保管しておくトタ倉、船を収蔵しておく
船倉、網を収蔵しておく網倉、沖揚げしたニシンを一時貯蔵しておく廊下、
漁場の守り神である稲荷社です。
また、船着き場、ニシン粕の干場、ニシン粕を炊いた竈跡があり、往時のニシン漁
場の姿をよく残しています。
指定日:平成9年(1997) 3月11日
内 容: 江戸時代の弘化元年(1844)に佐賀家八代平之丞が留萌で初めて礼受にニシン
漁場を開き、それ以来昭和32年(1957)までの113年間ニシン漁を営んできた
漁場です。
現存する建物は、江戸時代から明治初頭にかけての建造と考えられる母屋
(番屋)、明治36年(1903)建造の製品を保管しておくトタ倉、船を収蔵しておく
船倉、網を収蔵しておく網倉、沖揚げしたニシンを一時貯蔵しておく廊下、
漁場の守り神である稲荷社です。
また、船着き場、ニシン粕の干場、ニシン粕を炊いた竈跡があり、往時のニシン漁
場の姿をよく残しています。

留萌市指定文化財
黄金岬(おうごんみさき)の日和山烽火台跡(ひよりやまのろしだいあと)
所在地:留萌市大町2丁目(平成元年度に標柱設置)
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 夜になると、黄金岬の高台にうずたかく積まれた薪(まき)に火が入れられ、暗闇
の中にその明かりだけが輝き、岬から海を照らしていました。沖行く弁財船の男たち
は岬に燃える炎を見て、自分たちが安全に航海していることを知ったのだそうです。
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 夜になると、黄金岬の高台にうずたかく積まれた薪(まき)に火が入れられ、暗闇
の中にその明かりだけが輝き、岬から海を照らしていました。沖行く弁財船の男たち
は岬に燃える炎を見て、自分たちが安全に航海していることを知ったのだそうです。

三泊漁港遺跡
所在地:留萌市三泊町(平成2年度標柱設置)
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 三泊漁港遺跡は、標高2.5m~3mの砂丘上に乗る遺跡です。砂丘の形成期は縄文
時代前期(約5500年前)あたりで、当時の標高は3.5m前後はあったものと推測さ
れています。
縄文時代の生業が海洋狩猟的であったことを考えると、重要なものであることがわ
かります。
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 三泊漁港遺跡は、標高2.5m~3mの砂丘上に乗る遺跡です。砂丘の形成期は縄文
時代前期(約5500年前)あたりで、当時の標高は3.5m前後はあったものと推測さ
れています。
縄文時代の生業が海洋狩猟的であったことを考えると、重要なものであることがわ
かります。

星兜残欠(ほしかぶとざんけつ)
所在地:留萌市大町2丁目(海のふるさと館にて展示中)
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: この兜は源氏と平家が戦っていた平安時代末期に作られたといわれているが、この
時代の甲冑や兜で存在するものは数が少なく、残っているものはほとんどが国宝や重
要文化財として指定されています。
兜を着用できるのは、ある程度の武将階級の者だけであり、名のある武将が留萌に
やってきたものと思われます。
▲海のふるさと館にて展示の様子。
一緒に出土した杏葉(ぎょうよう)も展示しています。
※杏葉とは胴丸鎧の肩や腕を守る付属品のこと。
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: この兜は源氏と平家が戦っていた平安時代末期に作られたといわれているが、この
時代の甲冑や兜で存在するものは数が少なく、残っているものはほとんどが国宝や重
要文化財として指定されています。
兜を着用できるのは、ある程度の武将階級の者だけであり、名のある武将が留萌に
やってきたものと思われます。

▲写真は、兜の欠けている部分を補ったものです。

▲海のふるさと館にて展示の様子。
一緒に出土した杏葉(ぎょうよう)も展示しています。
※杏葉とは胴丸鎧の肩や腕を守る付属品のこと。
アトゥシ(2点)
所在地:留萌市大町2丁目(海のふるさと館)【現在、公開しておりません】
指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 北海道の先住民族であるアイヌの人たちは、樹皮衣と草皮衣という2種類の自家製
の衣服を身にまとっていました。
樹皮衣は、オヒョウニレの木の内皮から繊維を採取し、それを撚った糸でいざり機
で布を織ったものであり、その布で作った服がアトゥシです。
漁場の親方や北前の弁財船の船頭などは、このアトゥシを羽織ることが一つのステ
ータスシンボルとなっていたようです。

指定日:平成11年(1999)9月27日
内 容: 北海道の先住民族であるアイヌの人たちは、樹皮衣と草皮衣という2種類の自家製
の衣服を身にまとっていました。
樹皮衣は、オヒョウニレの木の内皮から繊維を採取し、それを撚った糸でいざり機
で布を織ったものであり、その布で作った服がアトゥシです。
漁場の親方や北前の弁財船の船頭などは、このアトゥシを羽織ることが一つのステ
ータスシンボルとなっていたようです。


旧五十嵐億太郎邸跡地
所在地:留萌市大町3丁目37-2内
指定日:平成29年(2017)5月16日
内 容: この場所は、留萌市特別功労者である五十嵐億太郎の邸宅があった場所であり、昭
和43年(1968)に五十嵐億太郎を祀っていた旧留萌湊神社が建設された場所です。
この場所から、留萌の歴史を動かしてきた留萌築港や大留萌建設事業などの大事業
が始まったといっても過言ではなく、留萌の歴史を語る史跡として後世に受け継ぎ、
大切に保存・活用しようとするものです。
指定日:平成29年(2017)5月16日
内 容: この場所は、留萌市特別功労者である五十嵐億太郎の邸宅があった場所であり、昭
和43年(1968)に五十嵐億太郎を祀っていた旧留萌湊神社が建設された場所です。
この場所から、留萌の歴史を動かしてきた留萌築港や大留萌建設事業などの大事業
が始まったといっても過言ではなく、留萌の歴史を語る史跡として後世に受け継ぎ、
大切に保存・活用しようとするものです。
▼令和元年(2019)に湊神社が解体される前の旧五十嵐億太郎邸跡地

▼湊神社が解体された後の、現在の旧五十嵐億太郎邸跡地

- このページに関するお問い合わせ
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教育委員会 生涯学習課 生涯学習係
〒077-0031 北海道留萌市幸町1丁目14番地 東分庁舎1階
電話番号:0164-42-0435
FAX番号:0164-43-6312
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